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感謝祭と「ありがとう」

こんにちは。若夏です。

  11月23日はThanksgiving Dayでしたね。皆さんは七面鳥、食べましたか。
 アメリカでは家族や親戚、友達と一緒に食事会を開いてご馳走を食べる日であり、国民の祝日です。サンクスギヴィングデー前夜、当日、そしてその翌日は殆どの企業や学校、お店や公共サービスが休みとなるのは、この日が日本でいう正月に近い意味を持つかもしれません。普段は遠くに住む家族や親戚が一同に集まって、街で行なわれるパレードを観たりフットボールの試合をテレビ観戦したりと、のんびりと過ごすようです。Thanksgiving Day、訳すと感謝祭です。『秋の収穫に感謝する日、神の恵みに感謝する日』が、感謝祭の辞書的な意味ですが、宗教が暮らしの全てではなくなった現代に生きる私たちにとって、楽しい気分に浸りながら、感謝するものとは一体何なのでしょうか。

 この祝日の起源は17世紀にイギリスから信仰の自由を求めてアメリカに移住してきた巡礼者達、ピルグリム・ファーザーズにあるようです。まだ手付かずの新大陸アメリカは、荒涼とした土地ためヨーロッパから持ってきた野菜や小麦が育たず、飢えと厳しい寒さに移民達の半数以上が死に、生き延びた者達もどうやって生活していくか危機にあえいでいました。そこに、この地に元から住んでいたアメリカ先住民(=「ネイティブ・アメリカン」または「インディアン」)が狩猟や採集、食物の収穫に関わる知恵を教授したそうです。そのおかげで、豊作を迎えることができた移民達は、先住民たちを招いて、採れた食糧でご馳走を振る舞ったと言われています。楽しい食事会をする感謝祭の始まりは、生活に苦しんでいた白人移民達が先住民に感謝をした、その出来事に端を発しているのですね。
 
  では、感謝祭とは、アメリカ先住民に対してアメリカに住む人々が感謝するのでしょうか。
 
 答えはノーです。七面鳥を食べながらワインを飲み、街ではパレードをやっている傍らで、毎年、喪服を着て祈りを捧げている人達がアメリカ先住民の子孫(=インディアン)だからです。先住民のお陰で、長い冬を越すのに十分な、食糧の収穫の術を身につけたピルグリムファーザーズたちでしたが、その後に続くようにヨーロッパから渡ってきた白人移民達(=白人入植者)は皮肉なことに、先住民の土地を奪い、自分たちの領土にしていきます。その過程は一方的な騙し、暴力や虐殺でした。1890年まで続く白人入植者による領土拡大で、元々いたアメリカ先住民はほぼ全滅させられました。何世紀にもわたる血みどろの闘いで激減させられた、同胞を悼んでデモを行っているのが、インディアン達なのです。
 
  この歴史からすると、今ある感謝祭の意味というのは、全く形骸化しているのかもしれません。自分たちに恵みをもたらしてくれたインディアンを騙し、弾圧し、殺した先に獲得した富、築いた国家の繁栄、を祝っているのと同じなのですから。感謝する対象がはっきりしていません。
 
 1621年、インディアンをご馳走に招いた入植一年目の年、ピルグリム達にあったものは先住民への感謝でした。新たらしい土地に最初はどう適応したらいいか八方塞がりだったのが、先住民の生きる知恵をもらった時、一気に道が開けたように困窮状態を脱することができたのですから、感謝の気持ちで満たされていたでしょう。ピルグリム達が次第に先住民たちを疎ましく思うようになり、憎悪までも抱くようになった、その背景にあるものは何なのでしょうか。
  
 
 それはピルグリム達、ひいては後に続く白人移民達が、自分たちとの比較において、インディアンを位置付けるようになったことだと思います。イギリスから渡ってきた彼らは、生産技術や農耕に関する知識は持っていたのでしょう。始めこそ、不慣れだった土地もしだいに自分たちの手でコントロールする術を知り、インディアンよりも、はるかに多くを生産するようになった時、自らの存在を確信したのです。文明をもつ自分達(=白人)には<進歩>や<正義>があり、文明を持たないインディアンは<野蛮>で<悪>なのだと。白人のまなざしは、先住民を人間以下の存在にし、自分たちを、善良で正しい存在と見なします。「文明化」の名の元に、先住民達の土地、生活、文化を根絶やしにすることは、正当化されていくのです(=西部開拓)。「自分たちが正しい」という自尊心、または優越感は、留まるところを知らないのですね。
 
 感謝で満たしてくれた相手が憎悪の対象に変わる、それは白人入植者達が自尊心を持ちすぎたため、といえるのではないでしょうか。過度の自尊心はプライドや傲慢さに結びつき、他者への軽蔑、排除を招くのかもしれません。
 それでは、1621年にあった感謝とは何だったのでしょうか。
 
 不毛な土地で頼るべきものが何もない、見捨てられた存在に思えた年。荒れる自然を前に、無力な存在であることを知った年。先の見えない大地はピルグリム達にとって不確かな未来であり、生存の不安定さは、自らを語ることのできない存在にします。現代なら難民のような存在です。そこに現れた救いの手は、ピルグリム達の存在を大地に根付かせる、新たな息吹きとして、確かにそこにあることを認めるものだったのでしょう。厳しい自然を前に力を持たない人間同士。ただその事だけが、相手の存在を愛おしく感じさせ、共に翌年の五穀豊穣を迎えたいと願う、そんな控えめな気持ちだったように思います。ご馳走を共にしていた時間、ピルグリム達が抱いた感謝とは「祈り」にも近かったのではないでしょうか。ひょっとしたら、感謝するというのは、祝うというより、祈る行為に近いのかもしれません。
 
 自明のごとく確立、肥大化していった白人入植者のアイデンティティーは、先住民の存在を否定するところに築かれたと知ると、何も手にしていなかった1621年、インディアンと顔をつきあわせて、語らっていたピルグリム達の内面の方が、よほど高貴なものがあったのではないかと思います。

「他者を認めよう」
簡単に言いますが、ひょっとしたら、そんなに簡単ではないのかもしれません。
 

 生きづらさの中に身をおいて、自分という存在が危機に瀕して初めて、他者の顔を見ようとするのかもしれません。逆を言えば、受け入れてもらえる自信や、受け入れられている安心感からは、その脇に追いやられようとする他者の顔は見えないのかもしれません。そう思うと「感謝」の意味を自分なりに噛み締めたくなりました。辞書で感謝の「謝」という字をひくと、こんな意味がありました。
   

   謝:恥じる(恥ずかしく思う、情けなく思う)  (出典『漢語林』)
 
 
 私には、過去を振り返って、自分を恥ずかしく思うような失敗や後悔がたくさんあります。それは口にできるようなものではなく、極めて個人的なものであることが多いです。「ああっ」と思わず声を出したくなるような恥かしさ、自己嫌悪は人生になければいいのに、と思ったことがあるのですが、感謝という感情が、そんな内向きな経験から発するのだとしたら、あながち、恥ずかしく思う経験も悪くないのかもしれません。
 
 自分の未熟さ、小ささに気づかせてくれる経験は、自らを恥ずかしく思う感情があってこそかもしれません。
 

 インディアンに感謝でいっぱいだった時、ピルグリム達は自らの未熟さ、小ささをよく知っていたわけで、そこにあるのは自尊心よりも、他者と共にあることへの「祈り」だったとすると、こんなことが言えると思うのです。

「ありがとう」は自尊心を持ち過ぎると、しっかりとは言えない言葉かもしれません。
そして「ありがとう」ほど、他者に触れる言葉はないのかもしれません。
 
 
ファイスブックの写真や出来事の投稿を見て、誰がどこで何をしているかを知っても、何を感じたらいいか、今一分からない時があります。会社に勤めれば「お疲れ様です」と言うけれど、この言葉ほど、形だけのものはありません。スマートフォンという道具は、人へのまなざしを与えてくれないし、「お疲れ様です」も、人の心に届くかどうかは関係ないのです。ただ「ありがとう」は違います。
 
 目の前にいる相手に「ありがとう」と言う時、また、誰かの背中からそれを拾う時、相手を、他者を、人の存在を強く感じさせてくれるのです。
 
 私自身、振り返ると、「ありがとう」と伝えたい経験は、それを誰かから言われる時よりも、自分を信じ前へと向かわせてくれています。それは自尊心とは違う類のものです。自分という存在が、他者とは切り離せないが故に、「ありがとう」は私を人に触れさせます。感謝したいあの時、あの人、あの出来事が、過去のものではなく、まるで星の光のように今になって力をくれる、そんなときがあります。私には今、「ありがとう」と言いたい人がいます。
 
  自分にとって、「ありがとう」と伝えたい人の存在は、先住民の生きる知恵がピルグリムに光を与えたように、どんな暗闇にいようとも、こちらの心を照らし出してくれる水先案内人、灯台、星の光、言い換えるとカリスマのような存在です。開拓者たちには見えないものを見て、拾い上げてくれる存在です。
 
 皆さん、「ありがとう」と言いたい人はどんな存在ですか。
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無題

私自身、感謝の言葉を送りたい存在は何人もいます。
苦労なく思いつく人もいますが、きっと、深く内省しなければ思い出せない人もいるでしょう。
自らへの問いかけを続ける事により、意識の底に居続ける、忘れかけていた人、感謝に値しないと思い込んでいた人、が浮かび上がるかもしれません。
もしかしてそれは、もどかしく、面倒で、苦痛を伴う行為なのかもしれませんが、新たな自分の発見や他者の救済につながるかもしれません。
そういった自らへの「問い」の大切さ、を気づかせる事が文学の役割なのかな、と考えています。
  • 山際響
  • 2018/01/01(Mon)20:33:36
  • 編集

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