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「嘘」


 こんにちは。若夏です。



 4月に入りました。新年度を迎えるにあたり、いかがお過ごしでしょうか。



1日はエイプリルフールでしたが、皆さん、「嘘」はつきましたか。



といって、思い出せたらすごいですよね。私達は人間関係を上手く成り立たせるために、一日に何回も無意識のうちについているらしいです。相手を喜ばせるためにお世辞を言ったり、元気づけるために本当のことを隠して違うことを言ったり、自分の失敗を、都合のいいように自分なりに解釈したり、出来なかったことへの言い訳をしてみたり、数えたらキリがないほど、嘘をついているようです。適度な嘘は人が付き合う中で学習してきた知的能力の結果であり、心の健康を表しているのかもしれません。


 そこで、良い嘘と悪い嘘ってあるのでしょうか。そんなことを考えてみたくなりました。



「嘘八百」という言葉があります。「八百屋」「八百万の神」というように「八百」には数が多いという意味があるので、「嘘八百」は嘘が極めて多いというのが字を読んで分かります。嘘が極めて多いことは悪いことでしょうか。悪いのはどうしてだろう、と考えた時「八百長」という言葉が「嘘八百」と似た意味をもつのではないかと思ったので紹介させていただきます。



 
 「八百長」というのは、勝負事で表面は真剣にしているように見せかけているが、実は予め打ち合わせておいて、その通りに勝負を決めること、馴れ合いで物事を運ぶことを言います。競馬や、相撲などのスポーツの世界ではよく事件になりますよね。目先の金銭の為に裏で取引をして試合の仕方を決める行為です。スポーツを観戦する側はそんなことが行われているなんて脳裏にもかすめず、その結果に一喜一憂しているのですから、観客の期待を裏切る行為ですよね。裏取引をする当事者達は自分の利益を優先して行ったのですが、世間に知られると、賭博罪、贈賄罪などと大変なことになります。八百長が成立するのは当事者が嘘をつき続けることによってなのでしょう。金銭を受け取る、という短期的な目標の為に試合のなかで、一手二手と作為的にプレーをするのは、芝居を演じていることになります。  勝敗にかける懸命さや大逆転などの奇跡がありうることを信じている観客にはもちろん、試合の当事者が自分自身に嘘をついているのだと思います。懸命さを装うプレーを重ね、最後には悔し涙を浮かべてみせる、そんな見せかけの試合を終えたあと、泣きながら「(芝居という)ゲームに勝った」と腹の中で笑っているのでしょうか。幾通りもある試合の一手二手にかける意図的な振る舞いは、自分の本来の力をごまかす程度の小さな嘘だったかもしれません。でも、その試合が本物として受け入れられた時、自分という存在に嘘をついたことになるのでしょう。それは誰にも見ぬくことができせん。見抜くことのできない嘘は人間の顔を見せません。



 
 松任谷由美の「最後の嘘」という曲があります。付き合っていた男女が別れを迎えようとしている、そんな時の流れを感じさせる曲です。歌詞の中に、こんなフレーズがあります。



 
 Tell a lie 最後だけ本当の嘘をついてよ



 きみが嫌いになったって



 Tell a lie 一度だけ心から嘘をついてよ



 すぐに忘れてしまうって




別れ際に相手を思って放つ嘘。その時はその人を傷つけるかもしれません。でも、その嘘の中にその人の顔が見えた時、嘘をつかれた相手は幸せに感じるのではないでしょうか。



 
 嘘をついた相手の表情の中に「あれは嘘だったのかな。」と思いを巡らすことのできる限りでの嘘は時に可愛く、愛らしく、憎たらしく、そして美しいものかもしれません。



でも「八百長」にみる嘘は、「嘘をつかれた」と人に意識させることはなく、「信じていたものが嘘だった」というあまりにも軽薄な現実を人々に投げ捨てるといったところでしょう。そのように考えると、「嘘八百」は恐ろしいですね。見抜くことができないところで、人間の顔をしていないのですから。人付き合いにおいて必要だったり、精神的未熟さ故のものだったりと、「嘘」というのは人にとって影法師のような身近な存在だと思いますが、「嘘」との付き合い方を間違えたら、陽がさしていても、自分の体温すら温まることのない生き方をすることになるのかもしれません。



 ついたとしても、それが可愛い嘘になる、そんな人間でいられたらなんて、春の日差しの中感じるこの頃です。



 


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Re:「嘘」

こんばんは。

4年前、父が意識の無いまま病院で最期の一か月を
過ごしていたとき、医師のかたからは
「もう意識がないので、話しかけてもわかりません」
というご説明だったのに対し、看護師のかたは
「聞こえているかもしれないから、ご家族は毎日
しっかりと話しかけて下さいよ!」
とおっしゃいました。

私ども家族としては、自分たちにやれることがある
と思えることで、ものすごく救われた憶えがあります。

(※この例は、嘘かどうかは判断つきませんが、とにかく
おもいだしたので挙げてみた次第です)
  • 瀬口 純
  • 2016/04/26(Tue)22:20:38
  • 編集

こんにちは、瀬口さん。

 こんにちは。
瀬口さん、はじめまして。

 大事な記憶を元にコメントしていただき、ありがとうございます。
 そうですか。言葉を介すことはできない、とても辛い状況であったと思います。言葉には自分の意思や意図を汲み取らせ、他者と心を通わせる力があると思いますが、そばにいる人の愛情を本当に感じるのは、その人と言葉を交わせなくなってからかもしれませんね。目の前にいるお父様を思って話しかけたことは、普段の生活以上に「本当」があったのではと思います。
 論点がずれてしまうかもしれませんが、私も祖母を亡くしました。仏壇で手を合わせている時に、生前は、祖母にこんなこと話したかな、とか、祖母はきっと、こう感じてたかもしれない、などと、以前は気付かなかった祖母の姿や、持ち得なかった視点を抱くことがあります。それはきっと祖母の眼差しを感じるからだと思います。姿も見えないし、声も聞こえない。なのに確かに語りかけてくる祖母という存在は、言葉ではなくて、<意味>の世界で祖母との新しい関わりが始まったんだと思っています。これも「嘘」のようで「本当」がある気がします。
  • 若夏
  • 2016/04/28(Thu)11:40:51
  • 編集

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