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もどかしさに応えるということ

こんにちは。若夏です。
皆さんはもどかしい、と感じる時、それは否定的な経験ですか。

 もどかしい:思い通りにならないことであっても、どうにかしたいと精神的に苦しむさま

 この言葉には弱くてもかすかに期待をかけている、そんな力が見えます。
かすかに期待をかけている、それはどんな状態なのかを、考えたくなりました。

 先日、『風は生きよという』というドキュメンタリー映画を観たのですが、その中で、ストレッチャータイプの車椅子に横たわりながら普通中学で学ぶ少年がいました。彼にできる意思伝達の手段はまばたきのみで、まばたきをしたらYes,しなかったらNoです。少年に一人、介助の先生が付き添い、授業の流れに沿いつつ、教科書の問いを音読して、YesかNoか反応をみて理解を確かめる、そんな姿がありました。まばたきをする目や、開いたままの目に、意思がはっきりしているなと、また、ぼんやりした目に、なんとなく疲れているな、と感じながら少年の生活を支える両親には、長年一緒に過ごしているが故に、彼の息吹というのか、意識のリズムのようなものが見えるのかもしれません。生徒達が手を使って計算式を書いたり、漢字を書いたりして覚えていくものを、脳だけで答えていくというのは、どういうことなのか、どのレベルまでなのか、映画を見ているだけでは正直、分かりませんでしたが、彼は普通高校へ入学を希望し、受験しました。


 
 今年の4月から施行されている「障がい者差別解消法」。その中に「合理的配慮」という言葉があります。企業や、学校で障がいの有無に関わらず、公平な機会を保障するという前提のもと、障がいのある人が求めれば、個人のニーズに合わせて環境を整えてもらうことを言います。つまり、差別を生む社会的障壁をなくす為になされる「調整」ということでしょう。

      合理的配慮:reasonable accommodation

 アメリカからきたこの概念は、英訳されて初めて、本質が見える気がします。
視覚障がい者だから点字が読める、聴覚障がい者だから手話が分かる、というのは、障がいをもたない人の思い込みである場合、画一的な支援では解決できない問題があると思います。その場、その時に応じて変えていく柔軟性が必要です。障がいをもつ当事者一人ひとりの声を、サービスを提供する側が受け取り、交渉を重ね合意していくプロセスをaccomodation「調整」に含んでいるのだと思います。

 先の少年にとって試験の答案は書けません。まばたきによる意思疎通ということは、選択肢による問題しか解くことはできないのですが、それを志望校に伝えても、用意されたのは、他の生徒達と同じ、記述式の問題も含むテストでした。それは、得点源が始めから他の生徒よりも少ないという不利な試験であり、回答を介助する先生も、二人付けたいと求めても一人しか認めてもらえませんでした。意思をくみ取る介助にあって、正確さと緊張を伴う3時間は、相当なプレッシャーを要したでしょう。少年の受験において、合理的配慮はなされなかったと言えます。誰もが授業中、言葉を発したり文章を書いたりする中で他者から反応を得て、自分の能力が引き出される、そんな経験をしています。回答だけで、能力を判断されるというのは、テストの時だけなのが大多数の人の経験ですが、彼は毎日が回答によって一方的に、一元的に解釈されざるを得ないのです。少年の父親が
「そりゃもどかしいと思いますよね。僕らももどかしいですしね。多分もっと、僕ら思ってるよりも複雑なこと考えてるはずなんですけどね。表現出来ないだけで。」
と答えている場面がありました。彼の抱える状況を説明しても、変わることのなかった入学試験は、少年を落とす為にあるかのようです。必要な措置をとろうとしない姿勢の背景にあるものは、何でしょうか。

 高校入学は試験に合格することが前提ですが、小学校、中学校は義務教育なので、誰もに教育を受ける権利があり、学校選択権はその親にあります。しかし、知的あるいは、身体に障がいのある子が就学する際、教育委員会などの第三者機関が特別支援学校あるいは特別支援学級に通学するよう最終決定を下すことが、あるようです。教育を受ける「権利」というからには、それは選択的なものであるはずなのに、当事者でない第三者が一定の基準に照らして認定、不認定という事務的な選別を行い、どこに就学するかを強制するのは適切なのでしょうか。あるいは、通常学級に入っても付き添いや介助を家族が一日中することを求められ、事実上、通学ができなくなるというケースもあるようです。通常学級、特別支援学級、特別支援学校、通級指導教室、インクルーシブ教育、習熟度別指導。教育を語る言葉はたくさんあり、どれもに意味があるし、理念と現実の間で改革途中のものも、多いでしょう。どの環境が最適か、それを決めるというのは、その子のアイデンティティの作られ方をあらかじめ知っている、そう断言するのと同じだと思います。
 
 授業中、発言や挙手ができなくても、クラスメートから名前を呼ばれるだけで、表情が変わる子がいるかもしれないし、教科書のページをめくる音に他律を学ぶ子がいるかもしれません。ざわめきや歌声がする中で、自分の名前が呼ばれるのを聞き分けたり、顔を見つめてもらったり、手を握ってもらったり、という自分に対する反応から他者の存在を確かめることが学習である子もいるかもしれません。勝敗のルールに協調できなくても、バトンを握らせ一緒にゴールすることで自尊心を得る子もいるかもしれません。

 先の少年は普通中学の授業についていく学力があったにもかかわらず、高校入試で門前払いのような対応を受けたのは、「この子は学級にいるべきでない」と学校が判断したからでしょう。そこにある基準は何だったのでしょうか。
「配慮」という言葉は「考慮」と違って、人に対して使います。相手を気遣う意味で使われる言葉なら合理的「配慮」には、障がいのある人に「支援される人」という受け身な意味を付与するかもしれません。ストレッチャーに乗り、介助を受けている「支援される人」は、この学級にいるのはふさわしくないという「配慮」が基準だったのだと思います。配慮する側に力があるのでしょう。

       福祉:さいわい。しあわせ。幸福。(『漢語林』)

 英語では、welfareやwell-beingという単語が「福祉」に該当します。福祉を考えるにあたって、慈善救済的なニュアンスのwelfareから、「より善く生きる」という意味を含むwell beingという概念へ、日本も変わり始めているようです。他者との関係を重視しながら、自らが望むライフスタイルを構築し実現できている状態を目指すwell-beingは、おのずと個人の選択・決定を尊重するものでなければいけません。幸福な生き方や生きがいを見出す力を育む手段として「教育」があるなら、「福祉」とは目標であり、両者は切り離すことのできない、誰もが共有する問題です。第三者の眼差しで語ることはできないはずです。一人の少年の学びの時間は取るに足らないものでしょうか。少年の眼差しは答えなくてもいい類のものでしょうか。少年がもどかしさの中でつないでいる期待は見なくてもいいものでしょうか。

  ”見えるものは見えないものにさわっている。聞こえるものは聞こえないものにさわっている。感じられるものは、感じられないものにさわっている。それならば、考えられるものは 考えられないものにさわっているはずだ。”(ノヴァーリス『断章』)

 私たちは「見えるもの」「聞こえるもの」「感じられるもの」「考えられるもの」だけで事物や他者を理解した気になりますが、この詩人の言葉は、自分が認識している世界は意識もしない他者の一部や領域と触れ合っている、そんな直観をあたえます。
【イメージとしては、前方だけに集中して車を運転しますが、見えた景色を後方に引き離していくことで車窓が何たるかを経験する感じでしょうか。】

 自分の持つ言葉の淵や限界に薄暗がりだが確かにある他者。
「配慮」=「支援される人」では、自分の隣にいるのは人ではなく、単なる固定化されたまなざしだと思うのです。そこで、「配慮」をよく見てみると、「慮」という漢字にこんな意味がありました。

          慮:まどう、うたがう(『漢語林』)

「重度障がい者」「高齢者」「難病」「支援される人」と「」でくくると、目の前にいる相手を分かった気になる自分とは一体何者なのだろう、そんな風に戸惑いながら自分の内側にベクトルを向けることが、隣にいる他者との扉にふれる一歩なのだと思います。世の中に固定化されたまなざしほど、恐いものはありません。それは、隣りにいるはずの他者との出会いをなくしてしまうでしょう。
 伝えたくても言葉にできないもの、心に対象化されても表現できないもの、その海の中でなんとか世界と自分をつなごうとしている少年のもどかしさに応えたいと願う時、私たちも自分の内側で、これでいいのだろうか、彼の見ているものを見ているだろうか、彼の眼差しに応えているだろうかと、もどかしく思いながら生きる必要があるのではないでしょうか。






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